貝の隅っこ

話を聞く副業をしています。 初回無料、2回目以降3000円~。詳細は最初の記事にて。

乳がん忘備録【8】

昼はとっくに過ぎた時間だった。すっかり日が短くなってきていたけれど、まだ辺りは明るかった。私は会社に向かって青山通りを足早に歩いた。頭の中は、さっき告げられたばかりのことで頭がいっぱいで、何かに追い立てられるようにして、ときどき小走りになった。

先生との会話。色々説明を受けたあと、何か聞きたいことはあるか、と聞かれて、ちょっとまだ頭が追い付いていない、と答えた。回らない頭で、抗がん剤とかをするのか、と聞いた。私の中では、ガン=抗がん剤で髪の毛がなくなったり、吐いたり、痩せたりして、ついには死んでしまう、というイメージだったので、自分も、そうなるんだと思った。でも、先生は、わからない、と答えた。すべてのガン患者が抗がん剤をするわけではないらしい。知らなかった。早期発見だから、病院選びはそんなに急がなくてもいいけど、年内には決めたほうがいいと言われた。急がなくていい、と言われても、よくわからなかった。私は、ガンのことをまったくわかっていなかったから、先生に、病気がわかったからって、今までと変わりなく、過ごしていいと言われても、言っている意味が、よくわからなかった。だって、ガンなんだから、ガンだから、死ぬんだ、私、と思った。だって、お会計のときの受付の人も、私を憐れんでいるように見えた。

 

じわじわと、やっと実感が湧いてきて、涙が込み上げてきた。ひっく、としゃくりあげた。このあと、どんな顔で仕事に戻ろう、と思った。というか、このあと仕事に戻るとか、控えめに言って最悪だと思った。

 

もっと泣きたい気がするのに、頭がいっぱいで、泣くことも、うまくできなかった。だって、考えなくてはいけないことが、山積みだった。取り急ぎ入院・手術先の病院の決定をしなくてはいけなかったし、会社に報告して、これからどうするのかとか、どうなるのかとか、相談しないといけなかったし、そして、なにより、家族に、伝えなくてはいけなかった。

頭がぐらぐらした。家族に、なんて伝えようと思った。

絶対大丈夫だと言っていた家族のことを考えると、ぶわ、と涙が出てきた。親不孝者だと思った。親の喜ぶことを、何も返してないのに、心配させたり、悲しませたりするようなことばかりしていると思った。そういえば、よりによって朝、来月のコンサート遠征のホテルを予約したばかりだった。無料キャンセル時期はとっくに過ぎていて、タイミングが最悪すぎると思った。

 

誰かに、何かを吐きだしたい気がして、メッセージアプリを立ち上げたけど、どこにも行き場がなくて、やっぱり閉じた。表面上だけは、何事もなかったかのように、会社に戻って、自席についた。でも、そのあとも、頭の中はぐちゃぐちゃだった。仕事に戻ろうとして、PCを見ても、画面に映し出されている文章が目を滑っていたような気がした。私の処理能力は、きっと5世代くらいの前のPCあたりまで落ちていた。

 

気が付くと、上長が席にいた。そうだ、上長に伝えなくては。伝えて、今後のことを、相談しなきゃいけないんだと思った。

ひとつでも気がかりをなくしたくて、ちょっといいですか、と声をかけた。なんでかよくわからないけど、私の顔は、ちょっと笑っていた気がした。