貝の隅っこ

話を聞く副業をしています。 初回無料、2回目以降3000円~。詳細は最初の記事にて。

乳がん忘備録【32】

聞こえますかー、終わりましたよー、という声で、ゆっくり、少しずつ覚醒した。

すごい、終わったんだ、ほんとに一瞬だったな、と思いながら、透明なマスクをつけたままの状態で、ありがとうございますと言った。先生が、リンパ節に転移は見当たらなかったですよと言ったので、よかったと思った。

胸になんとなく違和感はあるけれど、痛くはなくて、でも、ずっしりとした鈍い感覚だけあった。とにかく手術が終わって、目が覚めたことが嬉しくて、解放感でいっぱいだった。

 

しばらくの間、身体を休ませるために放置状態になったあと、寝たままベッドに移され、ベッドごと移動した。それが、病室で自分が使っていたベッドだと部屋に戻ってから気づいたので、移動できるベッドって便利だなと思った。

でも、昨日必死に、手術から戻ってきたとき、過ごしやすいように色々セッティングしておこう!と、延長コード、スマホの充電ケーブルの位置、ラジオの場所、S字フック、ゴミ袋をいい感じに設置したのに、全部取り外されてて、申し訳ないと思いつつ、ちょっと面白かった。

 

部屋に戻ってからも、色々と看護師さんがお世話をしてくれて、途中で母が入ってきたけれど、まだ入らないでくださいと、追い出されていた。

あとから聞いた話だと、終わりました、と言われてからずいぶん待たされたみたいだった。看護師さんが、ここに置いておきますね、と言って小さい袋を置いてくれて、何だろうと思ったら下着だったので、ひょっとして、下着なしで手術室行くのが正解だったのではと思って、それ以上は深く考えないようにした。

 

看護師さんが出ていくとすぐに、母と姉が入ってきたので、普通に手を振って反応した。すぐに手持無沙汰になって、携帯をとってもらって、友達に手術が終わった連絡をしたら、すぐに反応をもらえて嬉しかった。母と姉は、私が元気そうなのを見届けると、帰っていって、残された私は、それからベッドの上でネットを見たり、ぼんやりしていた。

乳がん忘備録【31】

先生たちは、私の点滴がついていないことに気づいて、注射の準備に入った。

今度こそ、スっと終わることを期待したけど、やっぱり、入らなかった。ベテランの麻酔の先生が、謝りながら、また刺して、でも無理だったので、みんな困惑していた。注射は手の甲だったので、とても痛くて、麻酔の先生も、ハイ痛いですよーという掛け声と共に刺していた。

 

先生は、「これで失敗したら、プロを呼んできますね」と言ったので、今すぐプロを呼んでほしいなと、思った。他で作業をしていた人が、大丈夫ですか、と言って寄ってきて、これで駄目だったら、〇〇先生呼ぶから、と答えて、その人がプロの先生なんだなと思いつつも、今すぐその人を呼んでほしいなと、もう一回思った。それから、私があまりに痛がるので、「あ、そうだ、先に寝ちゃおうか?」と、いいことを思いついたように言ったので、そんなことってある??と思った。 

 

ドラマでしか見たことのない、透明なマスクが私の口に乗せられて、全身麻酔の準備が始まったけれど、ここで、私のパニック障害が頭を出してきてしまった。マスクで空間が狭まって、息がしづらくなったので、怖い、苦しい、と訴えたら、最初は酸素ですよと言われた。でも、明らかに酸素じゃない、重たい空気が流れこんできて、今度こそ本当に、息がしづらくなった。

怖い、苦しい、とまた訴えて、いったん外してほしいと思ったけど、先生は、はい、吸って―、吐いて―と掛け声をしてきたので、これは外してくれないなと思った。

必死に、言うとおりに、息を吸って、吐くと、ものすごい速さで世界が閉じてきた。明らかに身体が動かなくなって、頭がぼうっとして、息苦しさは減っていった。私が静かになってくると、先生たちはまた点滴と格闘し始めて、薄目を開けてその後ろ姿を見たりした。私は、なんだか不思議な感覚が少し面白くて、どこまで意識があるのか、いつまで身体を動かせるのか、ギリギリまで右手の人差し指を動かそうとした。ぴょこん、と指が動いて、まだ動くんだ、と思った。意識はあるのに、身体が動かなくて、金縛りにかかっているときの感覚に近かった。まだ意識がある、まだ意識がある、面白いな、すごいな、と思いながら、完全に閉じた。

乳がん忘備録【30】

看護師さんと一緒に、明らかに関係者以外入っちゃいけなそうな、行ったことのないエリアのエレベーターに乗った。急に手術をすることになったことを知った家族が、驚いて慌てて来ないでほしいと思ったので、看護師さんにそのことを伝えた。

 

エレベーターを降りて、長い廊下が目の前に広がって、学校の教室みたいに、手術室の扉が並んでいて、それは全部中が見えるようにガラス張りになっていて、こんなふうになってるんだ~と思った。少し歩いたところに、青い手術着を着た数人の人だかりができていて、看護師さんはまっすぐそこに向かった。

 

こんにちは、と明るく和やかに手術着を着た人たちに迎えられたのを確認すると、看護師さんは去っていった。患者さんの取り違えがないように、名前を聞かれたので、声だけは元気に言った。マスクでよくわからなかったけれど、数人の手術着の人たちの中には、いつものさわやかな主治医の先生もいて、死にそうなくらい緊張している私とは対照的に、みんなにこやかで、笑顔だった。

 

病室で泣いてきたので、いきなり泣き出すかもしれないですけど、もう挨拶みたいになっているので、気にしないでもらえると嬉しいですと言うと、周りの人たちより少し背の低い女性が緊張してますか、と聞いてきた。

もちろんです、と言って、何が緊張しますか?と聞かれたので、麻酔とかで目が覚めなかったらどうしようって思ったりします、と言うと「私が麻酔を担当した患者さんの中で、目覚めなかった患者さんはいないですよ」と、ベテランを思わせる心強いセリフを言われたので、かっこいいと思った。

 

部屋の真ん中には手術台がぽつんとあって、周りにはいろいろな器具や、機材が置いてあって、テレビやドラマでしか見たことのない空間だった。もっと狭くて、暗い部屋を想像していたので、広くて、明るくて、なんだか変な感じだった。

手術台は高いところにあって、上るのに台を使った。この広い部屋と、各分野のプロフェッショナルな先生たちと、私一人のために、これだけの手間や工数がかかっていることが、とても贅沢なことで、それなのに医療費は、限度額認定証のおかげでそんなに高くなくて済むので、すごいなあと思った。

乳がん忘備録【29】

私の動揺をよそに、容赦なく、じゃあ準備しましょう、という空気になったので、慌てて姉へ、これから手術室に行きます、と連絡をした。さっきの返事から2分くらいしか経っていなくて、すぐに姉からの、驚いた返信が視界の隅に映ったけれど、返事をするヒマもなく、着圧ソックスを足にフィットさせるために引っ張った。

 

次は点滴になった。点滴は、採血の注射より太くて、でも私の血管は細いので、なかなか血管に刺さらなかった。ちなみにめちゃめちゃ痛かった。痛みから気を紛らわせるために、少しでも動揺を落ち着かせるために、手術は午後と聞いていたけれど、急に変更になったんですか?と聞くと、なくなったんですと看護師さんが言ったので、亡くなった?とオウム返しに聞き返した。看護師さんは、手術がなくなったんですよ、と言い直して、日本語って難しいなと思った。

 

また針を刺して、でも、やっぱり血管に入らなかった。とても痛くて、さらにまだ、心の準備もできていないから動揺は続いていて、付き添いもいなくて、慌ただしくて、こんなドタバタな状態で初めての手術を迎えることになって、ついに涙が出てきた。看護師さんは、注射がうまくいかないことをしきりに謝ってくれたけど、そうだけど、そうじゃなかった。

 

別の看護師さんもやってきて、また刺して、やっぱりうまくいかなかった。手術室で、先生たちが待っているらしく、看護師さんも困っていた。それから、先生たちを待たせるわけにはいかないので、とりあえず手術室に行って、先生にやってもらいましょうということになって、それでいいんだと思った。

乳がん忘備録【28】

朝になった。看護師さんがおはようございます、と挨拶に来てくれたりした。起床は6時半だけど、朝食もないし、とくに何かやることもないのでヒマになった。

 

手術は午後からなので、それまで何をしていようかなと思って、こういうときこそ有益なことをしようと、入院直前に上長と決めた、仕事の目標設定の案出しをしようと思った。

今やっている業務のなかで、何をどう工夫したら工数が減るだろうかと、思いついたことをノート書いた。なんだか頭が冴えていたので、いいアイディアがいくつか出てきた。そうしているうちに、姉から携帯に、11時すぎ頃に病院に到着する予定で準備しているという連絡が来たので、はーいと返事をした。手術は午後からで、合流したあと、何をして時間を過ごしていようかなと思った。

 

すると看護師さんが2人やってきて、これ履いて、点滴しましょうね、と言った。点滴を朝することは聞いていたので、何とも思わずに、長い靴下のような、白い圧着ソックスを受け取って、必死にベッドの上で履いた。看護師さんは、それを履いたら、行きましょうねと言ったので、どこへ行くんですか?と聞くと、

 

「手術室です」

 

と看護師さんが言った。私は、あまりに驚いて、ええ?と言った。

手術は、午後と聞いていて、家族は11時頃までにいれば大丈夫と言われていることを伝えると、看護師さんは、変更になりましたと、にこやかに伝えた。悪あがきのように、でも、家族はまだ到着していないどころか、家にいると言うと、家族には、貴重品を傍机に仕舞ったあと、鍵を託す必要があったらしく、看護師さんが、困った顔をした。でも、じゃあ後ろを向いているので、その間にどこかに鍵を隠して、その場所をご家族に伝えてもらえますか?と言ったので、ずいぶんアナログな方法だなと思った。

乳がん忘備録【27】

手術当日は、母と姉が付き添いをしてくれることになった。

家族は何時に来たらいいのかを看護師さんに聞くと、まだ決まってないのでわからないと言われた。前日までわからないなんてことあるんだなと思った。ただ、手術は午後からなので、11時までに来てくれていたら大丈夫ということだったので、姉にそう連絡した。

手術前夜は眠れない人も多いらしく、私もそうなるだろうかと緊張したけれど、でも看護師さんが、夜眠れなくても、手術中は麻酔でぐっすり眠れますから安心してくださいね、と言ったので、なるほど、と思った。

 

人生初の手術の前日、ということで、気持ちが出来上がっていて、やっぱり手術で万が一のことがあったときのことを考えて、ノートに今の気持ちを書いておこうと思った。とりあえず、家族に感謝の言葉を書いて、でも、絶対何事もなく終わると思っていたし、あとで読み返したときに恥ずかしい気分になると思ったので、くどくど書くのはやめた。

あと、手術が終わったら、会社の子たちと脱出ゲームに行ったりするぞ、とか、手術が終わったあとの楽しみを書いた。あと何を書こうかなと思って、今の気持ちを書こうと思って、ベッドが窓際だったので、夜景がとても綺麗なことを書いた。

思ったより書くことがなくて、どうしようかなと思ったけれど、そうこうしているうちに、なんだか普通に寝られそうだなと思ったので、そのまま眠りについた。

乳がん忘備録【26】

病室に戻ると、私は軽く行方不明になっていた。一度諸々の検査が終わったら、戻ってこなくてはいけなかったらしく、看護師さんにどこ行ってたんですか、と言われた。いない間に主治医の先生も様子を見に来てくれていたけれど、またあとで来ることになった。

看護師さんに、何をしていたのかを聞かれたので、相談支援センターに行っていたことと、手術をしなくても済む方法があると聞いたことと、それについて先生と相談したい旨を告げると、看護師さんは少し驚いたような顔になって、あとで先生に聞いてみますねと言ってくれた。どう考えても、手術前日にこんなことを言いだす患者は、迷惑だと思った。

先生を病室のベッドで待っていると、仕事帰りの姉が立ち寄ってくれて、私はさっき聞いた話を同じようにした。姉も驚いて、私は、手術をしなくていいならしたくない、と言って、姉は、とりあえず先生と話をしてみようと言った。

同じ乳がん患者さんからその話を知ったという経緯を話していると、主治医の先生と、入院中お世話になる先生と、先ほど相談した看護師さんが来てくれて、どうしたんですか、と先生が聞いてきたので、また同じ話を一からした。

話を聞いて、主治医の先生は、合点が言ったようになって、切らずに済む治療法はたしかにあって、以前やっていたという話をしてくれた。でもそれは、臨床試験をやっていただけで、それが治療の選択肢として正式に登場するのは、半年くらい先だということだった。半年、という言葉に、1か月でも、ガンが進行しているんじゃないかと気が気じゃなかったから、最初に診察を受けたときに、半年後なら切らずに済む方法がありますよ、と選択肢を出されても、きっと悩んだに違いないだろうし、きっと耐えられなかっただろうなと思った。

疑問がなくなって、納得して、騒がせてしまったことを謝ると、先生たちはよかったよかったと、帰っていった。姉は、先生を待っている間に、スマホでその治療のことを調べていて、先生の言っていたとおり、その治療がまだ実験段階で、研究中であるという記事を見つけていて、それがダメ押しのように納得した。